[BLOG] メモ書きに近いこと

なんとか自分の中身を整理しようとして書きましたので、乱文です。


1. 僕が常に、いろいろなことを深く真剣に考えすぎてしまう件について

僕は割と人よりものを考えるほうだと思っています。これは別に、うぬぼれているとか、そうあることが格好良いからとかではなくて、仕方がなく。僕にとって物事に『なんで?』『どうして?』と問いかけることは呼吸することと大して変わらなくて、一度『なぜ』と思えば自分の納得のいく答えを見つけるまで思考が止まることはなくて、それが煩わしくて思考を止めるためだけに答えを探していたりする。どうして生きてるんだろう、死んだらどこへ行くんだろう、神様はいるのかな、どうして僕はこんなにダメなやつなんだろう、どうしたらより良いニンゲンになれるんだろう。友達でも親でも、僕のことを見た人は大抵の人が呆れ顔になって、「そんな金にならないことばかり考えて」と言って、そういう奴のことを、僕はずっと「どうしてこんな大切なことをないがしろにできるのだろう」と疑問に思っていたけれど、最近、どうやらやっぱりおかしかったのは僕のほうらしいと気づきました。僕は特別だったんじゃない、異常だったんだと。


僕が物事に対して『なんで?』と問う理由が、純粋な好奇心だったらきっと異常ではなかった。僕が物事に対して『なんで?』と問うている間、僕が他のことをおろそかにしないでいられるのであれば、僕はきっと異常ではなかった。でも、僕が物事に対して『なんで?』と問う理由は、好奇心ではないし、僕は物事に対して『なんで?』と問うている間、それ以外のことをまったく重要視できない。生きることを含めて。


僕が物事に『なんで?』と問うのは、もう人生で二度と失敗したくないから、失敗する余地なんてもう残っていないから、ただそれだけ。これからもうあと一度たりとも失敗しないで、誰のことも失望させず、清く正しく間違いなく生きていけるように、なぜなら、僕はもう人生で死ぬほど失敗して、いろんな人を失望させてきたから。僕はもう自分の人生を無駄にできない、誰の時間も、誰の期待も、何もかも、僕にはもう。無駄にできるリソースなんてこれっぽっちも残ってないはずだから。


そう、僕は失敗『できないから』考え続けているのです。


そこに気づいた瞬間、「ああこれは異常だ、」と妙に腑に落ちた。腑に落ちたから『考える』というよりはそこから続く事実だけを辿っていったら、僕の行動基準や判断基準、外界に提示する価値観はすべて『他人』を基準に構成されていることに気づきました。これが、2点目につながること。


2. 僕はそんなに『僕のやりたいことをしない』件について

僕の行動や判断の理由、それから「これが僕の価値観ですよ」と外向きに用意しているものだったりというのは、すべて『他人』を基準に構成されています。他人に迷惑をかけないか。他人にとって、有用か。他人が変だと思わないか。他人がおかしいと指をさしてこないか。他人に笑われないか。他人に馬鹿にされないか。他人に、他人に、他人に!


もちろん、『そんなに』とした通り、すべてがすべてそういうふうに判断されているのではないです。VRoidの身体をつくったのも、歌を歌うのも、配信をするのも、僕のやってみたいことだったからやっている。むしろ、羊野リヒトとしてやってきた活動はほとんどが『自分』のためにあって、だからこそここは恐ろしく居心地が良かった。それが最近、少しずつ僕が羊野としても周りの人に良い顔をしようとしていることに気づいて、本当に怖くなった。この場所でも僕が自分らしく在れなくなってしまったと、すごく辛くなってしまった。羊野リヒトの動きが、すべて『他人に迷惑をかけないか』『他人に有用なことができているか』『他人に笑われていないか』と、現実の羊野理人と同じくらい、他人の目を気にしはじめた。どうしてそうなってしまったのか、何が原因だったのか、とかそういうことは、もうこの際どうでもよくて。馬鹿馬鹿しい、と思った。


変な話、例えば、僕が羊野リヒトとして消えてしまいたいと思ったとして、消えて、『全く新たなVTuber』として『転生』したとして、それで僕が満足するなら、やればいいのです。魅力的な考えだけれど、やるわけじゃない(とは思う)けれど。『転生』した自分が今知っている誰かに知られて、「コイツ本当に面倒くさいやつだな」と思われたとして、だからなんだ、という話で、別に『僕がやりたい』のならやればいい。だって、僕は誰からもお金を取っていないんだし、契約もしていないんだし、そこに法律的におかしいこと、倫理的におかしいことなんて、ひとつもないのだから。僕は誰にも何も、約束だってしていないんだから。


僕がすべてをやり直したいと思おうが、このままでいようが、顔を晒そうが、中身が見えすぎているのにVTuberと名乗ろうが、方針を変えようが、コンテンツに死ぬほどテコ入れしようが、人をリムーブしようがブロックしようが、病もうが喜ぼうが、それで結果的に一部のニンゲンに笑われようがけなされようが嫌われようが怒られようが、そんなのは、僕の、勝手だ。これがビジネスなら、これが仕事なら、話は違うけれど。


そしてそれは、現実の僕の人生にも言えることで。失敗しようが、間違おうが、その結果誰かに迷惑をかけようが、僕が辛くなろうが、なんだって、僕の勝手だ。これは誰かのための人生じゃない、僕のための、僕だけの、僕の世界なんだ。もちろん、近しい人や大切な人たちに、ある程度の礼儀と義理を働くことを前提として。人に迷惑をかける、または人を傷つける目的で何かをするのではないことを前提として。社会的に、倫理的に間違ったことではないことを、前提として。


自分のやりたいことをやるということを、もっと突き詰めなくてはと思いました。きっと、この世界で僕が僕らしくあって、それでいて不安にならず、それでいて人の目をこんなにも気にすることなく、それでいて、失敗しても「まあ、そんなこともあるさ」と笑えるのであれば、現実も侵食されていくだろうと思うから。いずれは僕の人生が、過去が、未来が、今までの僕の失敗への恐怖を、だからどうしたという開き直りで埋めていけば、きっと異常ではなくなるのかもしれない。


やっと生きられるのかもしれない、と思っています。




RICHT YOHNO

"僕の人生を見届けて、生かして、できるなら愛して" リアルでバーチャルなお兄さん

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